ABOUT

「体に優しい・心に優しい・地球に優しい・環境に優しい」
貴方の「優しい」に届く商品を取り扱っています。
商品を選ぶ時「お客様に優しい商品」を心がけています。
それは明日の地球への優しさに繋がっていく・・・貴方とチャンプールと地球が繋がる・・・そんなお店です。



◆◆◆ ~店主より~ ◆◆◆

有機八百屋を始めたのは30年以上も前のこと。生産性をあげるため、農薬や化学肥料を使用するのが当たり前の頃でした。けれども公害や薬害が続く中、そうした現実に疑問をいだき、農業のあり方を問う動きが生産者、消費者の中から生まれていました。生産者と消費者を分けて考えず、生活者として有機的に恊働しようとする動きでした。

そうした中で生まれてきたのが、私たちのような有機農産物を取り扱う八百屋でした。生産者と消費者の間に入り、物とお金のやりとりだけではなく、思いも行き来させることができる八百屋、そんな仕事を目指したのです。有機農業が広がり、有機農産物であふれかえるような世界を夢見ていたのです。

確かに有機農産物の流通は拡大し、スーパーでも有機野菜が売られる時代が到来しました。

大きな流通には様々なメリットがあります。流通経費を削減でき、品物の価格を下げることができます。私たちのような小さな有機八百屋には太刀打ちができないところです。店舗店頭でのクレジットやキャッシュレス決済にもなかなかついていけません。

そんな厳しさの中、こんな八百屋を存続させたいと仲間が集まってくれて、この度通販サイトを立ち上げる事になりました。慣れない通販事業ではありますが、お店の良品を遠く離れた皆さんにもお届けしたいと思っています。こんな八百屋がこれからも街の中で生きていけるよう、チャンプールの新たなチャレンジをどうぞ応援よろしくお願いします。

                                     夢観る八百屋 チャンプール 店主 高岡章夫

 


◆◆◆ ~「チャンプール」って?~ ◆◆◆

チャンプール(チャンプルー)という言葉はマレー語やインドネシア語が語源と言われており、沖縄弁のチャンプルー、九州弁のチャンポンと同様、「混ぜる」「混ぜて作った料理」という意味です。およそ13,000年前、丸木舟で黒潮の流れに乗り九州・沖縄に上陸した私たちの祖先を想像させる、スケールの大きな言葉です。

で、何を混ぜたの?という質問に答えるには長い物語が必要です。

チャンプールの経営者の一人であるスエマツが語ります。


★「チャンプール」が誕生するまで

 チャンプールの店舗は昔、「自給の邑」(じきゅうのむら)という屋号の無農薬八百屋でした。その創設メンバーの一人が、現在チャンプールの代表である高岡です。

 高岡は、当時原発に反対して東京電力の電気を拒否し、ランプ生活を1年続けました。でも実際には、電気がなくて一番困るのは「こねこ」と呼ばれた妻。彼女の偉大さあっての生活でした。

 客の一人だった私スエマツが「自給の邑」で働き始めたのが1988年。私は、「みんな八百屋になーれ」(晶文社)という本を読んでその気になり、「自給の邑」に相談に行ったところ、そのまま働くことになってしまったのでした。「自給の邑」は、近所にもう1件八百屋ができて競合するリスクを避けたかったそうです。その頃、もう一人の経営者である杉浦は、横浜の老舗「八百萬屋」(やおよろずや)で働いていました。



★このどうしようもない世界をなんとかましな世界に!

 杉浦とは、「非暴力トレーニング」で知り合いました。「非暴力トレーニング」とは、社会変革や非暴力直接行動の準備、職場やグループ内の問題解決などを目的として行なわれる、参加型のワークショップのことを指します。各種のデモなどで余計な衝突を避けるためにアメリカで生み出された手法です。無農薬や無添加、フェアトレードの食品販売なども、当時広い意味で非暴力直接行動の一例として捉えられていました。

 1980年代は、「無農薬八百屋ムーブメント」が起きた時代です。たぶん60年代の学生運動の流れの中から、食べ物や暮らし方に着目した人々とフラワーチルドレン(1960-70年代のアメリカのヒッピーのことで、ベトナム戦争を背景に、平和と愛の象徴として花で身体を飾っていたためにこう呼ばれた)が合体して生み出した動きではないかと思います。

 このどうしようもない世界を何とかましな方に動かすことを生業にしてやろうという発想で、多くの人々がこのムーブメントを支えていました。1986年のチェルノブイリ原発事故を経験し、放射能と食に対する関心が高まったことも影響を与えたと思われます。
 
 
 
★八百屋を試行錯誤する

 その頃、無農薬八百屋業界は、『JAC』(ジャパン・アグリカルチャー・コミュニティー(株))という卸会社が中心となったグループと、『ポラン広場』というグループの二つの流通がありました。「みんな八百屋になーれ」の「ナモ商会」や「八百萬屋」、「八百屋そうだわよ」はJAC系の八百屋で、「自給の邑」はポラン広場系の八百屋でした。

 「自給の邑」で働いてから2年後の1990年に夫の仕事の関係で渡米していた私は、ミネソタ州セントポールの小さな生協でボランティアスタッフとして1年程仕事をしていました。そんなある週、高岡と杉浦から手紙と電話で 『いっしょに八百屋をやらないか?』 と声がかかりました。夜中の2時に日本から国際電話がかかってきてびっくりしたことを覚えています。帰国した92年から準備を始め、(有)晴耕舎を設立。93年にオープンしたのが「八百屋そうだわよ」です。杉浦の友人がやっていた「そうだわよ」を居ぬきで引き継ぐ形で、横浜市瀬谷区に店舗を構えました。経営者3人と「こねこ」、4人でのもうひとつの八百屋のスタートでした。



★ごちゃまぜを始めよう!

 「八百屋そうだわよ」は店舗の立地が悪く、宅配と引き売りをメインとした店として運営せざるを得ず、毎日配達が大変でした。一方、年末のセール繁忙期には、駐車場にテントを張り、家族や友人総出で店舗営業をするようなこともある店でした。

 1997年には元の「自給の邑」が閉店することになり、同じ場所で高岡がその後を任され、「八百屋そうだわよ」を閉めて、全員で東林間に戻ることになりました。こうして、「自給の邑」と「八百屋そうだわよ」が混ざった店=「チャンプール」がオープンしたのです。チャンプールは、JACの商品とポラン広場の商品が混ざって並んでいる、たぶん日本で初めての八百屋となりました。

 その後、資本主義の荒波にもまれて次々と閉店してゆく仲間たちを受け入れ、その店のお客さんを引き継ぎ、商圏を拡大して、一時期はパートを含めて9人が働く店となっていきました。チャンプールはいくつもの無農薬八百屋が混ざり合っている、唯一無二の「八百屋」なのです。